今週のお題は「ほろ苦い思い出」らしいです。
「ほろ」どころか「苦しょっぱ辛い」思い出しかない私には難しい話題ですが、ひとつ書いてみようと思います。
昔話になりますけど、おじさんが当時働いていた場所の近くには一軒の中華屋さんがありました。
初めて連れて行ってくれたのは先輩であるKさん。
性格的には「熱くなると心のタコメーターが一瞬でレッドゾーンに入ってしまう」という実に昭和気質な方で。
そんなKさんに昼飯奢ってやるから行こうぜと連れて行って貰ったんですね。
お店の内装としては……
ガタつくテーブル。
綿がハゲ散らかして所々にタバコの焼跡がついた椅子。
店の端っこの上には小さなブラウン管テレビ。
店の入口脇に置かれた本棚には新聞と漫画ゴラク。
もちろん全てのテーブル上には灰皿が完備されている。
……といった絵に描いたような昭和の街中華。
今現在、こんな店を見つけたらネットで調べたりもせずにウッキウキで突撃しますが、当時の私は20代前半。
シケた店だなぁとしか思いませんでした。
「あらKちゃん、いらっしゃい。また来てくれたのね」
入店すると、柔らかな笑顔を浮かべた優しそうなおばさんがお冷を持って私達を出迎えてくれました。
「いやー、やっぱり週に一度はおばちゃんの料理食べないと元気出ないからね」
グラスを受け取った先輩も笑顔でそんな風に応じています。
そんな会話を横耳で聞きながら、私は軽く会釈だけしてメニューを覗きます。シケた店とは言え、オゴりですからね。
普段、教育的指導という名目で私に理不尽な暴力を与えて下さるKさんの財布に小さからぬダメージを与えてやらなければと、いう使命感に燃えていました。
パッと見て一番高そうな麻婆丼セットにしようかな、とか考えていたら談笑していた先輩が一言。
「生姜焼き定食ふたつ。マヨネーズ多めで~」
……オーダーが自動で決まりました。さすがKさん、私の企みを野生の嗅覚みたいなもので察知したのでしょうか。
それにしてもメニューすら決めさせて貰えないとは。
若干不服そうな視線に気付いたのか、タバコを吹かしつつゴラクをパラパラ眺めていたKさんは私に視線を合わさず小声で言いました。
「不満そうだが、落ち着け。俺に感謝する事になるからな」
まるで意味が分からないですが、意味深な言葉を呟いたKさんはそれっきりタバコとゴラクに夢中です。
当時はスマホとかないですし、私もやることが無いのでタバコ吹かしてました。
「お待たせ~。熱いうちに召し上がれ~」
しばらくして、笑顔のおばさんが料理を載せたお盆をもってこちらへやってきました。
「ありがとう。今日も美味しそうだね」
笑顔で感謝の言葉を述べる先輩。
私も「あざーす」みたいな全く心の籠ってないお礼の言葉を口にしながら提供された皿に視線を送ります。
茶色というか黒色が目立つ生姜焼きは、見た感じそんなに美味しそうには見えません。
まあ、食べもしないでウダウダ言うのは失礼ですからね。見た目は悪くても美味しいものってのは割とありますし。
そう思って生姜焼きを口へ運びました。
……もぐ、ジャリッ。
……もぐもぐ、ジャリジャリ。
何だか随分とクリスプな食感。
味付けも塩気が足りていない感じです。
というか私の知っている生姜焼きって、こんな砂を噛んでるような食感ではなかった気が。
そして隠し味とは言えないレベルで苦いです。
口の中で暴れる、言葉に出来ない味を私は無理矢理コップの水で胃へ流し込みました。
色々と処理が追いつかなくなった私がKさんへ視線を送ると、彼は無言で指を左右に振ってから自分の皿を指し示しました。
見ると、卓上にあった七味と胡椒をバカみたいに振り掛けたマヨネーズが。
Kさんは無言のまま、その七味胡椒マヨネーズを生姜焼きに絡めて食べ始めました。
調味料を爆盛にすることで乗り切れ、と?
Kさんの皿を指差してから指先を自分に向けると大きく頷かれました。
私も同じ様にマヨネーズへ大量の調味料を振りかけてから再度生姜焼きを口へ運びます。
辛味の効いたマヨネーズの味が口の中で猛烈な自己主張をしていますが、先程よりは格段に食べやすくなりました。
その様を見たKさんは力強くサムズアップ。若干涙目になった私もサムズアップを返します。
でも、よくよく考えるとおかしいんですよ。私はただ、昼飯を奢ってもらいに来ただけのはず。
何でどっかの特殊部隊みたいにハンドサインでやり取りしてるのでしょうか。
さて『嫌いなもの、食べられないものは残していい』という現在の価値観とは違い、当時は『出されたものは全部食べ切るのが礼儀。なお、お残しは死刑』という考え方が主流。
どんなものであろうと、箸をつけたものを完食しない、などという甘えは許されません。
とりあえず胡椒七味マヨで多少マイルドになった生姜焼きを口に含み、それを端っこが若干カピッた白米と、魚介出汁というにはかなり生臭い味噌汁で胃へと送る、修行僧でもやらないような荒行を繰り返して無理矢理完食しました。
最後はコップの水で口の中を洗って〆ましょう。
ただの水道水が一番美味しいと感じるなんて、後にも先にもこの時が最初で最後だと思います。
「ごちそうさんでした、今日も美味しかったよ。また来るね」
同じ様なタイミングで、この『生姜焼きと称される禍々しい何か』を食べ終えたKさんは、笑顔でおばさんにそう告げて会計を済ませて席を立ちました。
私もごちそうさまでしたと告げて会釈すると、逃げるようにKさんの後を追います。
「いつもありがとうね、Kちゃん。また来てくれるのを待ってるわ」
人のよい、本当に人の良い微笑みを浮かべたおばさんが私達を見送ってくれました。
おばちゃんには絶対に声が届かない距離になった頃、私はKさんに詰め寄りました。
やってる事は傷害未遂と言っていいレベルですからね。事情聴取をしないといけません。
憤怒の表情を浮かべていたであろう私に、Kさんは色々と教えてくれました。
『あの店は元々酒好きのおやじさんと、おかみさんであるおばちゃんの二人でやっていた』
『ある日、おやじさんが脳溢血で倒れてそのまま亡くなってしまった』
『ひとりになってしまったおばちゃんだが、思い出の詰まったお店を畳みたくないので一人で続けていくことにした』
『おやじさんが生きている間、おばちゃんは接客担当。物凄く人当たりがいいから接客は完璧なのだが料理の腕は壊滅的』
『あそこの店で一番マシなのがあの生姜焼き。以前にN課長が麻婆丼頼んだら、真っ白なあんにハムが浮いたものが出てきた』
『頑張って完食しようとしたN課長だったが、酸っぱさに負けて残して帰った。おばちゃんはとても悲しそうな顔をしていた』
『おやじさんが生きている時から馴染みだったのでおばちゃんを悲しませたくない。でも毎日通うと流石に死期が早まるので週1回通っている』
そんな内容をとつとつと語るKさんの説明を聞いて、私は驚愕していました。
更衣室に置いてあった私の足用消臭スプレーを勝手に全身へ振りかけて、後でその事実に気付いて理不尽な暴力を私に振るったKさん。
目が合ったという理由のみで駅前の階段でガラ悪めの方とキスするくらいの距離でメンチ切り合戦をした挙句、マウントポジションで相手をボコボコにしていたら警察にゲットされてそのまま留置所ステイコースになったKさん。
……そんなKさんに、まさか人間らしい心があったなんて。
まあKさんの人柄はさておき、そんな話を聞いてしまったら流石に二度と行かないとは言いづらいじゃないですか。
当時はインターネットとか会社のシステムくらいでしか使ってなかったですし、今と違ってググれば何でもすぐ出て来る時代じゃないですからね。
私も週1回のお参りへ参加する事にしました。
……それで気付いたんですが。
お店に『衛生責任者〇〇〇〇』って書いてあるプラ板が掲示されてるんですど、名前が明らかに男性なんですよ。
んで、その事をKさんに尋ねたんですね。
「バカ野郎! 死んだおやじさんが天国から見守ってくれてるから大丈夫に決まってんだろ!」
という、なかなかにエスプリの利いた言葉が返ってきました。
色々ゆるかった当時だから許されましたが、今なら絶対に保健所が黙ってませんよね。
まあ私の勤め先の方々だけでなく近所の方々もおばちゃんの事は気に掛けていたようで、なんやかんやお店の経営は続きます。
おばちゃんはどんな時も優しくて、ちょっとKさんと仲違いした時も仲裁をしてくれたりしたので私も次第にこのお店が大好きになりました。
数年経ち、私がちょっと遠くへ異動になって通えなくなってしまったのですね。
この頃になるとおばちゃんの腕も結構上がって、生姜焼きの焦げもかなり無くなっていました。
ファーストインプレッションが衝撃的過ぎたせいで、生姜焼き以外頼めなくなっていたので他の料理はどうだったのかまでは分からないですけど。
異動してからもたまに思い出すことはあったのですけど、簡単に行ける距離では無かったのでそれっきりだったのですが……
更に数年後、当時の職場へ久々に訪れる用事がありました。
久々におばちゃんの生姜焼き食べたいなと思って、当時の記憶を頼りにお店へ向かったんですよ。
お店があったはずの場所は小奇麗な住宅になっていました。
記憶違いかな? と思って先に用事を済ませるかと当時の職場へ向かったら、Kさんが会いに来てくれたのです。
用事を終えた後で一緒に喫煙所へ行き、当時よりも大分髪が薄く白くなったKさんと昔話に花を咲かせました。
思い出話ですから当然あの店の話題になり、ここへ来る前に寄ろうとしたら場所分からなくなってしまったって言ったらですね。
おばちゃんは私が異動して1年後くらいに亡くなっていました。
店が全然開かないから、気になった近所の人が見に行ったら布団の中で眠ったまま息を引き取っていたらしいです。
いきなりそんな話を聞かされて何も言えない私の前で、Kさんは大きく煙を吐き出してから言いました。
「あそこは本当にマズかったよな。……でも、今も時々無性に食べたくなるんだ」
見たこともないような優しい瞳で、困ったように微笑んだKさんはそんな事を言いました。
「そうですね、本当に不味かったです。……でも、また食べたいですね」
その時の私も、きっと困ったような笑顔だったでしょう。
お互いにしばらく無言で煙草を吹かして喫煙所を離れ、私は帰路へつきました。
……書いたのを読み返して思ったのですが『ほろ苦い』というか『物理的に苦かった』話ですかね、これ。